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2023/05/25 20:27

横山織物ストーリーズ
 ~創業者 初代忠安の歩んだ道~
<初代忠安(ただやす)の生い立ちと機織り>
初代忠安は農家の生まれ。明治生まれの忠安は当時、農業と雑貨商を営んでいましたが
山の国・秩父では肥えた田畑が少なく、農業で儲けるには多くの田畑が必要でした。
田畑を増やすには、すなわち他人の土地を手に入れること…忠安はそれを嫌い、当時花形だった織物業を志します。
近くの農家で手機織りの『いろは』の手ほどきを受け、秩父の大きな機屋さんに丁稚奉公に行き、町九工場(現:和銅旅館)で工場長までのし上がりました。
そして当時国会代議士であった荒舩清十郎の丸上織物(秩父郡横瀬町)で働き、井重織物(秩父市中村町)では念願の番頭になりました。
苦労人であり、努力家で働き者であった忠安は懸命に働いたことが覗えます。
『勤勉な姿を見て尊敬している』と後に井重織物のご家族の方からこのように言われたそうです。

その後独立し大正九年(1920)に『横山織物』を設立。銘仙を主に製造していました。
その中には銘仙だけではなく、丹前(縞織り)や当時秩父ではいち早くジャガード織も織っていました。

<戦争と横山織物>
時代は戦争真っ只中。
横山織物にも戦争の影響が出ます。
第二次世界大戦では国策でゼロ戦(当時の戦闘機)のビス部品などを作る軍需工場になり、その時代を乗り越えました。
当時は国が企業整備という制度をつくり、全国の鉄製の織機や一般家庭の日常生活の鉄や金属は国民全体が国に供出しました。
横山織物でも織機が一台も無くなり、空になった工場は軍需工場となったわけです。

<終戦後、何もない時代>
戦争が終わった昭和20年(1945)以降は織物工場に戻りました。
しかし工場には織機は一台もありません。お金がなく材料も道具もありません。
忠安は機屋をやりたかったけど、すぐ始めることはできませんでした。
その頃、戦前国に協力しなかった機屋さんたちは織機が残っていたためすぐに織ることが出来たそうです。
物がなかった時代。織った製品は飛ぶように売れ、すごく儲かった機屋さんもありました。
秩父では当時『ガチャマン』(一度、ガチャンと織機を動かすと万単位で儲かったという語源)という流行語が出来たくらいでした。
昭和22年頃から、再び一丁杼の織機を新たに買って織物をはじめた忠安。
織機を手に入れるのも糸を手に入れるのも非常に困難な時代でした。
物資を道具に換えて…借金をしながら機織りを続けていたそうです。

この頃、忠安は戦争から復員してきた親戚のひとりが結核にかかり、その葬儀を手伝いしたことで自身も結核を患います。
その時から13年の間、闘病生活を送ることになりました。
当時高校生だった娘ふたりは忠安の手足になって機織りを手伝ったそうです。
本人が病気で動けないため、図案屋さんの社長はわざわざ横山織物まで十キロ近くの道を自転車で訪ねてきて、筆談で仕事の打ち合わせをしていました。こうして家族で仕事を支えていた時代もありました。この頃、多くの方々の支えがあり今日がある、本当にありがたいんだ、と後に二代目の敬司は語っています。

昭和30年代に生活様式が欧米化するとともに銘仙の着物の生産から夜具地(布団用品)に代わっていきます。
その頃になると秩父地域だけではなく、他の産地でも生産を増やし、その中で競争し最盛期を迎えました。
横山織物でも近所の方たちが働きに来ていた時代もあり、多い時は女工さんが30人ほど働いていました。
織機も一丁杼から四丁杼の織機に変えていき、四倍効率があがり利益を出すことができました。
そして…
横山織物工場で作られた商標登録『金星(きんせい)』のブランドで大当たりしそれまでの借金を返済できました。
“きんぼし、きんぼし”と言って、偽物のコピー品が出回ったほど売れたそうです。
この金星の話は生前二代目敬司に伝え聞いた話です。

こうして横山織物は大変な時代を乗り越えていきました。
忠安もその後、結核は治り、現場での仕事を復帰し、晩年七十代まで仕事をつづけました。
つづく…

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